すあげのしせきログ

文化、博物館を嗜みます。

才能とは、他者を自己の中へ吸収して、包含することである

「ないものねだり」をする大人を見ると腹立たしくなる。

 

小さい頃は、自分や自身の回りにはありとあらゆる可能性を秘めていて、未来は希望に満ち溢れていた。

でも、私たちはある時気付く。世界がそういう風には出来ていないということを。

 

 

自分にはあると思っていた才能は、他の人にもあり、またはもっと才能のある人が五万といることに強制的に気付かされる。正直に言うとクソゲーだ。

 

たいていの人は諦めたり、適当な理由で納得したりすることで折り合いを付けている。中には、自分は無能ではない。それには「特別な理由」があるからだと、「俺はまだ本気出してねえから!」と、本気で主張する人もいる。本当に世の中、世知辛い。

 

 

かくいう私も、学生時代憧れ、希望した業界へ進むことはできたものの、当時のビジョンの甘さ、現実の課題に頭を抱えながらも、まだ諦めたくないと足掻いている惨めな大人へ、いつの間にかなってしまった。

 

だからこそ、「ないものねだり」で夢を語る大人が腹立たしい。

この感情は嫉妬であり、単に「あなたには私の苦悩が分からないでしょうね」という承認欲求でもある。

 

都合の良い時だけ声をかけ、都合の悪い時には誘わない友人。SNSを通じて、自分が選ばれなかったことに気付き、相手がそういう人であるとうっすら気付いてしまう。そんな日常にごくありふれたシーンでも、着実に擦り減るものがある。



「そこにない」ことは事実である。事実それ自体は変えられない。
その受け取り方は変えられることを胸に刻んで生きてきたからこそ、大きな声でないものをねだる大人を見ると腹立たしくなるのだ。


最近、とある画家の展覧会を観覧した。
渋谷区立松濤美術館で開催中の『津田青楓 図案と、時代と、』である。

 

津田青楓という画家は、正直に言うとマイナーである。最近まで、美術愛好家でも知っている人はほとんど居なかった。

 

1880(明治13)年、京都で華道一門の次男として生まれ、10代から図案家、デザイナーとして活躍した『才能』のある人だ。

20代では、兵役の後、フランスへ国費留学をして、図案だけでなく、洋画や刺繍といったマルチな才能を開花させた。

 

30代以降は、自身で設立した図案制作会社にて封筒や、便箋、巻きタバコ入れなど日常生活の中にアートを取り入れた商品、東京、名古屋、京都で画塾を開き、事業家として生計を立てていた。かなりのやり手である。

 

しかし、順風満帆のように見えた彼の人生も、京都帝国大学河上肇との出会いによって一変する。

共産主義の活動に関与したとして任意同行の後、釈放。この事件をきっかけに、塾の解散し、洋画を諦め、日本画へ転向することを表明。

以降、各地を旅しながら多くの作品を残し、1978(昭和53)年没した。亡くなる4年前には、兼ねてから親交のあった山梨県一宮町(現笛吹市)の小池氏が私財を投じて、青楓美術館を設立した。

 

彼の人生を振り返って見ると、図案に始まり、洋画、デザイン、刺繍、日本画etc...とマルチな才能を発揮したと言っても過言ではない。

 

今回の展覧会では、彼の図案集や装幀を担当した典籍がほとんどを占めていた。『赤い鳥』で有名な鈴木三重吉や、高濱虚子の挿絵、夏目漱石の典籍など。

 

美術館ではたいてい、これらの作品ともに作品の解説をするキャプションが備え付けられている。

わたしは普段、そういった会場では気に入った作品だけキャプションをじっくり読むのだが、ここで驚かされたことがある。

 

どの作品を読んでも、背景として、多くの人が関わっている。ひとつ新しいことを始めるにも数多くの師、同志と心を交わし、彼の作品へと落とし込まれている。つまり、彼の作品には、「彼以外の誰か」が溶け込んでいる。

 

お湯を入れて3分のカップ麺よりも、鶏ガラをじっくり煮込んだスープを選ぶように。

マグネシウム合金板塗装の看板よりも、陶器製看板の方が劣化しないように。

 

彼の作品には、血の通った人間から受け取ったものたちを、彼という視点で落とし込んでいる。

 

そこから生み出される「美しさ」が評価され、その「美しさ」は表面的な美しさではなく、彼の「才能」により生み出されているのだ、と感銘を受けた。

 

 

『ないもの』としてねだっているものは『即席の才能』である。しかし、この世にそんなものを出せるのはドラえもんくらいしかいないだろう。

『才能』とは『他者を吸収し、自分の中に同居させる』営みによって蓄積された経験であり、私たちの目の前に見えているほんのわずか表面に過ぎないのだ。

そんな当たり前のことであっても、理解することは実に難しい。

 

必ずしも正しく評価されるとは限らないこの世の中で、ほんのわずかな希望でも信じて生きてみたい、そんな風に思えるような1日も悪くない。

 

2022.6.22

素揚

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